中世の都市「ヒクマ」は「謎の都市」とされているんだって!!!
マジっすか?!
それじゃ、「ヒクマはどこだ~?」と調べてみた。
元来、曳馬(ひくま)というのは、実はもっと広域を示す地名!
ならば、狭義の曳馬(ひくま)と広義のヒクマを調べてみよう。
狭義の曳馬(ひくま)
郷(ごう)とは、奈良時代の地方行政区画(国郡郷里)の単位で、1300年以上前からこの地に集落があったということになる。
「島之郷」は、文字通り天竜川がつくった中州にできた、かなり大きな村と想定できる。現在でも、この付近一帯は、地面を少し掘れば、天竜川が運んだ砂利が出土する。
明治になって「島之郷村」は、曳馬村の大字名となり、やがて昭和の浜松市への合併時に曳馬町と改称され、永年愛称されてきた「島之郷」の名は、ほとんど聞かれなくなった。
「曳馬」の地名は、かつて遠江地方が引間または引馬、江戸時代には曳馬、と呼ばれていた事にあやかって付けられた。
そうだったのか!あやかったんだな。
広義のヒクマ
引間は万葉集にも見られる古い地名で、引馬城(浜松城の前身)、引馬宿、引馬野(曳馬野)といった使われ方もある。浜松市中心部や三方原台地上まで含む広いエリアを指していた。
中世の都市と「ひくま」
中世を通じて経済活動が活発化し、日本列島各地に都市が発展する。
当時の浜松にも「ヒクマ」と呼ばれる都市が登場し、その賑わいの様子が古文献に紹介されている。
たとえば、梅花無尽蔵や十六夜日記など。
十六夜日記(部分)
浜松荘の一角にあった「ヒクマ」宿に関する記述がある。
ホラホラ、あるじゃんねぇ!
ヒクマ各所から出土した中世の蔵骨器(東小学校校庭遺跡)
当時使われていた戦国時代の日常雑器
ところが、繁栄をきわめた「ヒクマ」はその正確な位置は分からない「謎の都市」とされている。
引馬野に 匂ふ榛原 入り乱れ 衣匂はせ 旅のしるしに・・・ 長忌寸奥麿
この歌は、702年、持統太上天皇の三河国行幸の時に、長忌寸麻呂(ながのいみきおきまろ)が詠んだ歌。
と、なると、引馬野は、三河まで含まれていたと言うことか。
浜松生まれの国学者、賀茂真淵は、この歌に詠まれている「引馬野」がどこであるかは諸説あるが、浜松が有力である!とっている。
なるほど、曳馬町では無いが、浜松地区を含むこの遠江地域一帯を「ヒクマ」であると解釈しよう。
もちろん学者でも無ければ、そんなに昔から生きては居ないので、真実はわからない。
万葉の時代のひくまは、点ではなく凄く大きな面を指していたと仮定する。
あるいは、異国にも似た意味合いが込められていたのか。なぜならば、ヒクマから見れば都だって異国に変わりないのだから。
しかし、ここ「曳馬」は、浜北人や三ヶ日原人など石器時代から人が住んでいた地域であり、延喜式(927年)には遠江國の地名としてひくま(引摩:昔は当て字)が記載されている。
さらには、曳馬と言う地名が存在している事実などを総合すれば、この地こそ「ヒクマ」と呼ぶにふさわしい。
たとえ賀茂真淵や森鴎外の唱えた「ヒクマ」浜松説が否定され、長忌寸奥麿が詠んだ引馬野がここじゃ無いとされても、ヒクマはここに違いない!
曳の凧印を揚げながら、そう思うのであった。